空の屋根に座って

感動は、残しておきたい。

【感想】麒麟がくる最終回

 ついに終わってしまった「麒麟がくる」。約一年も見続けてきただけあって、最近では最も思い入れのあるドラマでした。もう来週からは観られないと思うと寂しい気もするけど、それ以上に物語の結末を見届けられたことに胸がいっぱいです。コロナの影響で過去に例のない大変さだったと思いますが、毎話妥協しないクオリティには頭が下がります。キャスト・スタッフの皆様、本当にお疲れ様でございました!
まだ再放送があるので、最終回のネタバレ感想は隠しテキストにしておきます。

 ネットでは「最終回まであと少しなのに、本能寺の変に間に合うの?」という意見が多かったけど、あらゆる場所にフラグを立てて、満を持しての“本能寺の変”だったと思います。
そして、麒麟がくるで披露された新解釈が実に良いんですよね。従来、光秀の動機は怨恨とされてきましたが、ドラマを観ていると、もっと大きな信念のもとに彼は動いていたことが分かります。

 ちなみに、ドラマでは十兵衛のお母上が殺されるシーンはありませんでした。麒麟がくるの鋭い考察をされている方によると、なんでもそのエピソードは後世で創作された可能性が高いのだとか!(次週ついに本能寺! 森蘭丸の「無礼であろう!」が浮き彫りにした光秀、秀吉の危機【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1017053 より)
ビックリですよね~。でも創作だとしたら、それはそれで良かった。あの優しい牧さんが磔にされると思っただけで震え上がるから……。

 十兵衛の「世を平らかにする」という信念はドラマ開始時から一貫しており、作中で何度も出てきました。そんな終生の悲願を達成すべく、時には斎藤道三に、時には足利義昭に、時には織田信長に仕えてきました。その時々に、自分の主君こそが世を平らかにできると信じて。
 けれど、最後の主君である信長は戦のたびにパワハラ上司になっていく。人格的に気に食わないというだけならまだしも、彼の政策はますます平和から遠ざかっていくようにしか見えない。それが十兵衛には耐えられなかったのでしょうね。本能寺の変は、起こるべくして起こった事件なのだと改めて思いました。

 塀の上に見える水色の桔梗紋。それを目にしたときの信長の心情を思うと切ないです。出演者ラストメッセージで染谷さんも仰ってましたが、『攻めてきたのが光秀であったことへの喜び、悲しみ、切なさが入り混ざった複雑な感情』がそこにはあり、それらを見事に演じていらっしゃいました。

『長く眠ってみたい』
『二人で茶でも飲んで暮らさないか』

 暴政をふるう信長でも、こんな台詞が飛び出すほど戦乱の世。天下をとってなお、満ち足りることはないのだと思うと、なんか考えさせられますね。死が目前だというのに、信長にどこか安堵の表情が見えるのは、今までずっと走り続けて休み方を忘れてしまった自分に、誰か引導を渡してくれと心の奥底では願っていたからではないでしょうか。そして、兼ねてから一目置く十兵衛が相手だったからこそ、『是非もなし』という言葉が出たんですよね。

 本能寺にあがる炎を見つめながら、十兵衛が思い出を振り返るシーンは涙を誘います。朝の浜辺で初めて会った日のこと、二人で大きな国を作ろうと語り合ったこと……初期はあんなにピュアピュアだったのに、いつからこんな殺伐としてしまったのか……。あの頃に戻りたい。

 そういえば、本能寺の変前日、囲碁を打つシーン出ましたね!ヒカ碁の番外編でも取り上げられたシーンで、ちょっと興奮しました。しかし、どこが三コウになってたんだろう……。一瞬すぎて盤面ちっとも分からなかったです。まぁ、じっくり見ても分かんないだろうけど。

 十兵衛が天下をとった後から没するまでの描写ほぼなし(ナレーションのみ)、という展開は個人的にすごく気に入りました。歴史を知ってる私たちは、このあと中国大返しがあって秀吉に討たれると予想できるけど、物語として見たときに、この終わらせ方が最良であることは明らかです。十兵衛が竹槍に刺されて死ぬシーンを付けたところで蛇足にしかならないし、麒麟がくるの本筋は十兵衛の生涯ではなく、十兵衛が成し得たかったことだからだと思うんです。

 あまり詳しくないんですけど、十兵衛=南光坊天海って説があるんですよね。じつは生きているという想像の余地を残したラストは非常に夢があります。家康に託した手紙も、再来年の大河「どうする家康」で触れてくれたら嬉しいなぁ。